柴田理恵が語る家族とは?徹子の部屋
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最終更新日:2018/09/28
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2018年9月27日の徹子の部屋は柴田理恵がゲストです。
柴田理恵が小さい頃過ごした故郷・富山での暮らしぶりや、小学校教員だった母親・須美子のエピソードや
一人っ子だった柴田を可愛がった一昨年89歳で逝った父・柴田豊一 のことや
最後まで仲が良かった両親の話や大好きだった地元の祭りでのエピソード、
その祭りで家族に紹介したという結婚31年になる夫の話を語ります。
柴田理恵の母親・宮田須美子
母・宮田須美子の実家は富山の老舗「宮田旅館」で、夏休みには接客を手伝っていました。
柴田理恵の母は38年間、小学校の教員をしていました。
終戦後に須美子は女学校に通いながら旅館の手伝いをしていました。
そこで男女同権という言葉を聞いて、教員の仕事をすることになったといいます。
17歳から教員生活が始まり、昭和29年に試験に合格して正式な教員になりました。
卒業生がいまだに怖がるほどの怖い先生だったとか。
さらに街の青年団に参加して、後の夫の柴田豊一と出会いました。
そして結婚して柴田理恵が誕生しました。
出産後に須美子はすぐに仕事を再開しました。
柴田理恵は母について仕事優先の人だったけどほったらかしではなかったと語っています。
おもちゃとかは全然買ってくれず、人形が欲しいとかいうと、こんこんと説教されたとか。
料理裁縫とか全部嫌いな母でした。
旅館の娘なので嫁に来るまで米なんか炊いたことが無かったそうです。
柴田理恵に子供用の料理本買って、これで料理作ってみろと騙されて作っていたそうです。
子供のころから自分で弁当を作っていました。
母が17才の時に修学旅行で動物園に行ったときに、生徒がものを落としたので先生が自ら取りに行ったら眼鏡の取り合いになったそうです。
この事を生徒たちに作文を書かれてしまい、あとで校長先生に怒られたとか。
柴田理恵の母・須美子はスパルタ教育をスタジオで柴田理恵を鳥小屋に監禁したがある。
鶏肉が好きになるようにニワトリ小屋に閉じ込めたもので柴田理恵はその事件以来さらに鶏肉嫌いになったとか。
祖父の柴田豊三は晩年は柴田理恵の家族と暮らしました。
両親の帰りが遅いので柴田理恵は祖父の柴田豊三に可愛がられました。
須美子が退職した後は久しぶりに3人で過ごしました。
仕事がどういうものか教えてくれたのは母だと思うと語っています。
柴田理恵の夫の柴田信幸
柴田理恵にはモテ期は大学時代が人生初で最後でした。
柴田理恵は、この時に人生初のラブレターをもらいました。
そのラブレターの送り主が今の夫・柴田信幸でした。
柴田理恵とは同じ大学の演劇研究部員でした。
初めてのラブレターは巻物に毛筆で、柴田理恵はなぜかもらったラブレターを燃やしてしまっています。
付き合ったキッカケはドライブで、車酔いした柴田理恵が吐いた度に介抱してくれました。
柴田理恵はそこで初めて気持ち気づいたとか。
柴田理恵が28歳の時に、WAHAHA本舗の舞台監督をしていた柴田信幸と結婚しました。
夫婦円満の秘訣は一緒にご飯をたべることととか。
柴田を可愛がった父・柴田豊一
柴田理恵が小さい頃 父は結核を患って療養所にいました。
お見舞いに行くと二人でこっそり抜け出して古本屋いって父は自分の好きな本を買って、理恵には童話の本買って喫茶っ店に行ってコーヒーとミルクを飲んだそうです。
酒飲みだった父親は家にお金を入れず、両親はしょっちゅう夫婦喧嘩をしていた。
怒った母親が「理恵とおじいちゃん(父親の父親)をつれて出て行く!」と言い出して
父親が「ひとりで残るのは寂しいから俺も連れていけ!」と言って収まった事があったとか。
両親はときどき殴りあいのケンカをしていたとか。
父が亡くなる直前に母が父の大好きな栗をもって見舞いに行ったら母の分まで食べて父は満足したそうです。
母が家に帰った病院から今なくなりましたという連絡が入ったそうです。
黒柳徹子への土産はピーナッツバター
今回黒柳徹子への土産はピーナッツバターでした。
手作りのピーナッツバターです。
といっても、ピーナッツをフードプロセッサーでひくだけです。
タモリから教えてもらったそうです。
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