秋吉敏子ジャズと生きる!徹子の部屋
公開日:
:
最終更新日:2018/07/10
トレンド
2018年7月10日の徹子の部屋はジャズピアニストしてジャズと生きる秋吉敏子がゲストです。
秋吉敏子は1929年12月に旧満州(中国東北部)遼陽生まれました。
現在88才になります。
ピアノ鍵盤の数と同じ数になってうれしいとか。
現在ニューヨークに住んでいて今回の来日も一人できました。
3つの国で生きたジャズピアニスト・秋吉敏子。偏見に負けない2つの信念 #テレ朝POSThttps://t.co/jBqLRMxo93
— テレ朝POST (@post_tvasahi) 2018年7月9日
スタジオでは、黒人を主役にした初のオペラ「ポーギーとべス」から『サマータイム』をジャズ編曲で披露します。
幼い頃からピアノを習い始めた秋吉さん。
戦争で一時ピアノを諦めたが、引き揚げてきた大分には進駐軍のためのダンスホールがあり、ピアニストとして働くことに…。
そんな時、偶然聴いたジャズのレコードに惚れ込み、ジャズピアニストを目指したといいます。
別府で福井三郎ジャズレコードのコレクタ―で、アメリカ軍用のダンスホール、日本人用のダンスホールと分かれていて
秋吉は日本人用のダンスホールに雇われました。
阿久井さんから呼ばれてティディウィルソンのスィートロレンを聞いて、私もあんなの弾きたいというのがジャズ入門でした。
才能を認められアメリカで活動するようになったが、アジアから来たピアニストということで心無い言葉を掛けられた時もありました。
だが、ある信念を持つことで強く生きられたと語りました。
秋吉敏子ジャズと生きる!
秋吉敏子は小学1年生でピアノを習い始めました。
1956年、26歳で単身渡米して、日本人としては初めてバークリー音楽院(Berklee College of Music、現バークリー音楽大学)で奨学生として学びます。
当時は学校で引き受けますというビザが無ければいけない時代でした。
1962年、チャールズ・ミンガスのバンドに参加。1963年、最初の夫チャーリー・マリアーノとの間に娘のマンディ満ちるをもうけましたが1965年に離婚します。
1967年に現在の夫でありフルート、テナーサックス奏者のルー・タバキンと出会い、1969年結婚します。
1973年にロサンゼルスで秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンドを結成し、1974年、ジャズと日本古来の和楽を融合した『孤軍』を発表しました。
1982年にはニューヨークへ戻り、1983年に秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキンを結成、自らの作編曲で通算30年にわたって活動を続け世界的に名声を馳せた。
その評価と人気を示すものとしてアメリカのジャズ専門誌ダウンビートでは秋吉とルーのビッグバンドは批評家投票で1979年から5年連続、読者投票では1978年から5年連続で共に1位を獲得している。
1996年度に主にその著書『ジャズと生きる』で第9回ミュージック・ペンクラブ・ポピュラー部門最優秀賞を受賞。
2003年12月29日、ニューヨークのジャズクラブバードランドでの演奏を最後にオーケストラを解散しました。
1996年刊の『ジャズと生きる』(岩波新書)は、秋吉敏子の自伝でです。
1996年は、音楽生活50周年、渡米40周年にあたるため、何とかこの機会に、と6カ月かけて書いた、と「あとがき」に書いています
内容は戦いの連続。
女としての戦い。日本人としての戦い。そして、金との戦い。
ルー・タバキンと一緒に徹子の部屋に出演した時のVTR
2人の演奏の後でルー・タバキンが秋吉をミュージシャンとしてどう見ているのかをききました。
「彼女は特別なミュージシャンである
彼女はジャズの歴史に特別な貢献をした
彼女は自分の持っている伝統を生かして新しいものをジャズに持ち込んできた。
そういう意味では非常に大事なミュージシャンである。」ルー・タバキン
現役でいるために必要な3つのこと。
・朝起きて体操
・ピアノの練習
・夜寝る前に歯を磨く
ピアニストは足がしっかりしていなければならない
ワインの収集
ワインは4000本集めました。
ワインのために車で大陸横断しました。
古いワインだけ自分で運びました。
秋吉敏子&ルー・タバキン 公演
秋吉敏子&ルー・タバキン 公演
公演日 2018/9/15(土)
会場 東京文化会館 小ホール(東京都)
関連記事
-
剣道最高段位の範士8段との対戦の勝者はいるか?THE 大金星
2018年10月13日のTHE 大金星は剣道最高段位の林邦夫 範士8段 73才に中学生・高校生時代に