小柳ルミ子の母の思い出・徹子の部屋
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最終更新日:2018/05/22
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2018年5月22日の徹子の部屋のゲストは16年ぶりの出演となる歌手・小柳ルミ子です。
今でも日々鍛錬で細い体型を維持しているルミ子さん、その鍛錬法に黒柳さんも興味津々です。
小柳ルミ子の母は子供に自分の夢を託しました。
小柳ルミ子は小さい頃からスパルタ教育で歌手の道を目指しました。
宝塚での厳しい環境の中、母に苦悩の手紙を送ったり電話をした時も取り合ってくれなかったといいます。
しかしその後、母に送った手紙を見ると母の涙が滲んでいたとか。
臨終の時は、離れた地方から母の枕元に電話で『瀬戸の花嫁』を歌ったという話も。
さらに、デビュー時に母が手縫いで作ってくれた思い出の衣裳も見せてくれました。
小柳ルミ子の体鍛錬法
小柳ルミ子は65歳とは思えない抜群のプロポーションの持ち主として有名ですよね。
小柳ルミ子は特にジムにも、エステにも行っていないといっています。
自分の家がジムと思って何かをしながら柔軟やストレッチなどの日々の鍛錬で体調や体形の維持をしているわけですね。
「ルミ子流オリジナルストレッチ」をテレビ見ながら腹筋したり 開脚したりの毎日続けているそうです。
ワンピースできている小柳ルミ子に黒柳徹子は普段やっている柔軟体操を見せてくれと言います。
スカートなのにと小柳も少し驚いたようですが、快諾しました。
ハイヒールで前屈をしました。
小柳ルミ子はお風呂で足を顔の上まで持ちあげて洗っているそうです。
腕を鍛えるのは普段持ち歩くバックの重量を7kgにしているそうです。
普段の体操で鍛えて太らない体質になっているのでお菓子好きでたくさん食べても太らないと言います。
平尾昌晃が出演小柳ルミ子が新人賞を取った19才の頃のことを話しました。
嫁に行かない、お母さんに親孝行したいので結婚しないといったそうです。
じゃあ歌で結婚させようと言って作ったのが瀬戸の花嫁だったとか。
ベストテンが始まったころに「お久しぶりね」で小柳ルミ子は出演しました。
小柳ルミ子の亡き母の夢とスパルタ教育
母親は12年前になくなりました。
母愛子は歌が大好きで「女の子を生んで歌手にする」と生む前から思っていたそうです。
小柳ルミ子は3才の頃からクラッシックバレエを初め週8つお稽古をしました。
ピアノ、歌、ジャズダンス、タップダンス、日本舞踊、三味線、(サインのため)習字等々。
母親について小柳ルミ子は、
「すっごい厳しかったです。もう母と一緒に歩きたくないくらい嫌いだった。
箸の上げ下げから、靴の脱ぎ方から(すべて)。何か褒めてくれたこともないし、ハグしてくれたこともない。慰めてくれたことなんて一度もない。子供のころは、『このお母さんは、私の本当のお母さんじゃない』って思ってました」
とサワコの朝で話しています。
母が見つけてきた宝塚音楽学校には 15歳で入りました。
在学中に小柳ルミ子はつてを頼った口利きで渡辺プロダクションに歌手になりたいと願い出ます。
渡辺プロは、「宝塚を首席で卒業したら歌手にしてあげる」と回答しました
13科目の平均点で順位が決まるとか。
成績一番の人が委員長になるのですが、つらかったと言います。
どうきでも年上の人がいるので規則を破ったら委員長の責任になるそうです。
15才の小娘が19才のお姉ちゃんの責任を取らされるのが不条理だと思っていたそうです。
このころ母親に電話したそうです。
いやならやめればと言ってガチャンと電話を切られたそうです。
冷たい親だなと思いながら涙流して寝たそうです。
後で手紙に母の涙の後がありました。
ともあれ言葉通り見事、1970年(昭和45年)に宝塚音楽学校を首席で卒業しました。
「わたしの役目は終わったじゃけんね。後は渡辺晋さんにお任せ。私は一ファンとして応援するだけだよ」と母親が言ったときに
小柳ルミ子はかっこいいなあと思ったそうです。
厳しい母親でしたが遺書には、「ルミ子、ルミ子が娘で良かった。ルミ子のお陰で幸せだったよ。楽しい人生をありがとう」と書いてあったそうです。
母親が作ったデビュー当時の衣裳を小柳ルミ子は持ってきました。
洋裁で仕事をしていてのでとてもかわいい衣装に仕上げてありました。
サッカーを年間2000試合は見るそうです。
バルセロナが愛するチームだとか。
ついにーの本を出したそうです。
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