加藤登紀子の徹子の部屋
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加藤登紀子は戦争中の1943年にハルビンで生まれ、母と兄姉と過酷な引き揚げを体験しました。
その後は獄中結婚するなど波瀾万丈な人生を送ってきました。
その生活を支えてくれた母が昨年101歳で死去しまた。
ハルビン時代、収容されていた施設が略奪に遭い、リーダーから餓死を覚悟してと言われると、「外には沢山食料がある」と施設を出て働きに出た母。
加藤登紀子は阿修羅のごとく戦った母によって守られ、日本に流れついた命なのだということを痛感しているのです。
なくなった母は旧満州では本当に食料がなく餓死した人もいるのを知っているからこそ、生きる事の大切さをいつも語っていたといいます。
加藤登紀子の母の思い出
去年101才でなくなった加藤登紀子の母は
最後の一週間は奇跡的に意識がはっきりして、ロシア民謡をづっとかけ続けていたとか。
結婚してから引き上げまでの11年間はすごく大事な年月だっただなと思いました。
その後ロシアレストランをやってロシアの文化の中できた
けどそのことがすごく大事タナト思った
引き開けを体験
中国人やロシア人のいろんな人たちの暮らし方を見ながら
積極的に生きてきた人だから
日本が守ってれなてくれないことがわかって
それならそうしてくしかないね。
収容所に入ったんだけど食料も全部なくなってしまって
飢え死にしますよと言われたときに
そんなばかなということで
母はお針子になってデパートに努めたそうです。
戦争がおわってからの1年間はそこで食糧入手して大変な努力を重ねたそうです。
人は飢え死にするときはその周りの世界に一切食べるものがなければ飢え死にます。
でも眼の前に食べるものがあるときには何とかして絶対に生き延びなければだめだ。
あるとき母が100年も生きた人っていうのは相当ガッコがいいんじゃないかと言い出して
新聞広告の裏に何が書き始めたそうです。
それを文字お越ししたのが「ハルピンの詩が聞こえる」という本になりました。
その本があるおかげで加藤登紀子の子供時代のことが鮮明に分かると言います。
加藤登紀子の母の励まし
加藤は学生のリーダーである元全学連委員長だった藤本さんとの交際を悩んでいたといいます。
「すごく悩んだ。あまりにも生きている場所が違う」と当時の思いを明かした加藤だが、
その時、母から「あの人はあんたのお守りさんやから交際を続けなさい」と言われたといいます。
「女っていうものは、誰かを思うことによって心の平和が保たれている。もしそれを無理やり別れちゃったりしたら、あなたはすごい危険な女になっちゃうわよ」という母の
言葉に背中を押されました。
獄中結婚
加藤登紀子は1943年12月27日旧満州ハルビンでまれ、満州引き揚げて日本に帰国しました。
東京大学に進学した加藤登紀子は在学中の1966年に「誰も誰も知らない」で歌手デビューしました。
当時の東大では大学紛争が1968年から1969年にかけて起きていて、全国各地で激しさを増していきました。
この時代に、加藤登紀子は反帝全学連副委員長を務めていた後の夫・藤本敏夫と出会い交際を始めました。
藤本敏夫は、結局、1972年4月に公務執行妨害等の罪で逮捕されます。
懲役3年8カ月の実刑を言い渡された藤本敏夫は、中野刑務所に収監されました。
加藤登紀子の周囲はこの交際に猛反対しましたが、加藤登紀子の実母の淑子は、応援し続けたそうです。
ハルビン時代の収容所とは
1945年8月9日ソ連軍の侵攻が 始まると、関東軍は軍人やその家族を逃がすことを優先し、開拓団の女性、子どもたちを置き去りにしたまま逃げ出しました。
残された人々による集団自決 が各地で起こり、迫りくる死から逃れんがための逃避行や想像を絶する難民収容所生活などで肉親を失いました。
1945年8月15日、ハルピンで終戦を迎えた日本人は約5万人と言われています。
その後迫害でハルピン以外から避難してきた日本人のための収容所も10か所ほどたちました。
元々ハルピンに住んでいた日本人も街中では住めなくなり、新たな収容所ができました。
収容所は悲惨を極めたといいます。
寒さと食糧事情の悪さ、加えて栄養失調、発疹チフスの蔓延で、多くの人が亡くなったといいます。
最後は100万本のバラをバラライカの伴奏付きで歌って終わりました。
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